しろくまの日記

しろくまがが綴る、ありのままの日記。

大きな夢や野望というものがないことを肯定できるようになって生きやすくなった話

わたしは特に昔から大きな夢や野望というものがない。

夢をもっている人はやっぱりキラキラ見えるし、昔は自分にはそれがないことがコンプレックスだったりもした。自分の存在意義に疑問をもったり、なんだか生きづらく感じている時もあった。

ただ、最近はすこし考え方が変わった。
別に大きな夢や野望は、なくてもいいと思う。
大切なのは「自分にとって何が幸せか?」ではないか。
こうやって文字にするとあたり前すぎるのだが、意外と心からこう思えるようになるまで私はとても時間がかかった。

人間は知らないうちに他人の基準で生きている。みんなが良いというものは良く見えるし、親が喜ぶものは良いものに思えるし、世間で評価されている人たちを見るとそれが素晴らしいもの、目指すべきものであるように思えてくる。でも、それらはすべて人の共同幻想なのではないかなといつからか思うようになった。
そもそも人間はひとりひとり違う個体であり、相対的に比較するようなものではない。それを一律に並べるのは何か違和感がある。とはいえ、資本主義の世界の中では階層構造になっている方が都合がよい。なので、相対的に比較し、多く持つものが素晴らしいかのような幻想に陥ってしまうのではないか。

なんとなくそんなことを考えるようになってから、ならばその共同幻想共同幻想として認識し、受け入れ、一回横においておき、自分という個体にとってはなにが幸せなのか?を考えればよいのではないかなと思った。

それがもしかしたら、(私的には息苦しく思うような素敵に聞こえる)「社会的に成功すること」「世の中を変える会社をつくる」「衰退産業を蘇らせる」「貧困地域を救うこと」という人ももちろんいるかもしれない。それはそれでいいと思う。

私は、たまたまそういう大きな夢や野望が自分の幸せと感じないだけ。

 

では、何が自分にとっての幸せなのか?でいうと、
・飽きないように刺激的な毎日を死ぬまで送ること
・我慢せず自由な選択肢がとれるような環境にあること
の2つかなーと思った。

これらを実現するためには、やっぱりお金は一定数必要だし、一緒に楽しみを分かち合えるパートナーや、日々自分自身がアップデートしていけるよう工夫も必要である。また、自由を手に入れるためには、それなりのスキルや実力もないといけない。はっきりNOといえるのは、他に選択肢をもつからなのだと思う。

 

大きな夢や野望がなくとも、自分にとっての幸せを実現するためにと思うと、日々の活動力になる。そういう意味では、夢や野望という形ではなくとも「こうありたい」というビジョンのようなものは持っておくべきではある。目指すべきところが明確に見える方が、人間は頑張れる生き物だから。